2008/10/14 仏教と尺八

投稿日:2008-10-14 更新日:

『日本仏教史』石田瑞麿 岩波全書 1984によると、近世江戸仏教の「新宗の成立」(p269)において、本願寺の分裂、高野山の紛争、新義真言の分裂、新来の黄檗宗、融通念仏宗の再興、修験道の分裂と並んで、「普化宗」が扱われている。
「また少しく趣を異にするが、古くは薦僧と呼ばれ、集団をなして一宗を称した普化宗がある。近世に至って武蔵の鈴法寺を道場とし、下総の一月寺と共に栄えた。白衣に編笠をかぶり、短刀を帯び、尺八を吹いて諸国を回遊し、犯罪者等の格好の隠れ家となったから、幕府は延宝五(一六七七)年、虚無僧覚を出すに至っている」。
これが全文である。限られた紙数の割には要領を得た解説といえるが、共に触頭として君臨した一月・鈴法寺の関係があいまいである。
ただし、同書は、触頭制度そのものについて別の箇所(p249.259)で触れている。それによると、この制度は戦国大名が領国支配のためにとった分国法中の注目すべきものの一つで、禅宗では「僧禄」と呼ばれた。触頭制度は、幕府から諸宗本山への上意下達を容易にするためのものであったが、逆に諸寺からの上申願書もこれを通してなされた。触頭制度は、本末制度の確立の流れの一端を担っていたのであり、本寺は末寺住職への任命権をも握り、寺社奉行への訴訟、僧侶への行刑なども、触頭の添書や奥印が必要であった。こうした触頭制度の成立はほぼ本末制度と揆を一にし、寛永十年前後に始まると推定されている。
とにかく、本寺は絶対的優位を保証されたから、末寺が結果的には様々な面で、本寺の圧力を蒙ったことはいうまでもない。例えば、末寺住職の相続一つをみても、本寺は公認料として上納金をとり、寺格によってその公認料に等級別の差を設けている。そしてこの権限は得度から法名・院号の授与や本尊・聖教の下附等は勿論、その折々の遠 ・法会にまで、本寺は末寺から収奪できるものであった。しかも寺格や僧階がこれに付随し、階層的な段階を設けて、上納金を押しつけることができた。

日本仏教史』Ⅲ(家永三郎、赤松俊秀、圭室諦成 監修)法蔵館 1967
柏原祐泉「近世篇第二章」p97「普化宗の成立」
普化宗は、唐の普化禅師を開祖におくのでその宗名を称し、鎌倉時代の法燈国師(覚心)が入宋してわが国につたえたというが、事実は、本宗も同じく(融通念仏宗と同じくの意味、筆者註)江戸時代中期に開宗したものである。中世には暮露・暮露々々・梵論字・薦僧・馬聖などとよばれる半僧半俗の乞食僧があり、彼らは放浪して雑芸化した念仏をつたえ、また尺八を吹いて物乞いをした。しかし、他の浮動的念仏集団の場合と同じく、戦国期から江戸時代初期にかけて次第に宗団組織を形成し、近世初頭にはすでに全国で十六門派をかぞえるまでに統合されていた。そして薦僧の称は虚無僧と改められ、持ち物の尺八は澄心悟道の法器と解釈されて、禅宗の教義により権威づけられることとなった。また、織豊期から江戸初期の間に、虚無僧居住の地方寺院が建立されたが、そのうち紀州由良の興国寺、下総の一月寺、武蔵の鈴法寺、京都の明暗寺(妙安寺)、同妙光寺、常陸の心月寺などが中心となった。
延宝五年(1677)十二月、幕府は最初の虚無僧諸派本寺宛の法度を下し、普化宗でも同時に十七カ条掟を定めているが、ほぼこの時期に普化宗々団の成立を設定すべきで、宗名もこの頃に公認されたものと考えられる。このとき、一月寺と鈴法寺は触頭として諸派を統制し、明暗寺は関西の末寺を総括した。この場合、幕府は本宗を新宗としてではなく、禅宗の一部として認めたのであって、それはやがて本宗が普化禅宗とも公称されることから肯ける。しかし普化宗では、無檀無家禄を宗旨とし、托鉢、茶 製作、風呂屋の志銭、尺八教授などをもって糧とし、中世的な生活形態を継承したが、近世ではとくに、慶長十九年(1614)家康から下付されたと称する『東照宮御条目』という法度を偽作し、幕藩権力にたいするある程度の制外的権威を成立させ、それを楯にして宗権を確立した。そのため普化宗の寺は、浪人、犯罪者、落伍者などの隠遁処ともなり、ひいては封建的社会矛盾の緩和剤ともなったが、また幕藩体制の秩序維持に相反する存在ともなった。したがって、幕府体制が崩壊に近づく弘化四年(1847)十二月には、幕府は「元来普化禅宗と唱え臨済の支流候。専らに禅宗を相守り、武門の隠れ家或は身元顕し難しなど申し唱え候筋にこれ無く」と触書を出し、たんに臨済宗の一支流として存在を認め、その制外権を剥奪した。さらに近代に至り、維新政府により、明治四年(1968)に本宗は廃された。

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