曲目からみた禅尺八の系譜(琴古流や都山流など、演奏経験がある人向き)
奥州、関東、関西、九州など、伝承地が各地にわたっていることから、禅尺八はさまざまな異なる音楽内容を有している。わが国の日本語方言の豊かさからもわかるように、国土は狭い日本ではあるが、切り立った山や峰は、各地を隔てて、多様な文化を育んできた。ましてや古典本曲(禅尺八)伝承における上記の代表的な四地域は、人間的気質の違いがあることは、日本人の間ではみなわかっているも常識であり、当然のこととみなされている。も明らかに存在するとされる位、文化を含む人間生活のあらゆる部分においてその違いを際立たせてきた。禅尺八とて例外ではない。
吹禅の世界では、「一寺一律」という言葉がある。文字通りに解すれば、一つの虚無僧寺に、一つの曲が存在していたということになろうが、実際にはどの寺にも複数の曲が存在している。座禅の代わりの本格的な曲(目的が禅定を得ることだから、一定メロディの繰り返しで、あえて音楽的起承転結をさけている)から、「昼から」といわれて午前中の修行を終え、束の間の慰みに吹く「戯(げ)曲」まで、用途・目的に応じて、たとえば求道性を一つの曲に据え、娯楽性を反対の極に配するというような・・・。
狭義には、のは、各虚無僧寺に特有の曲(レパートリー)や旋律が存在していたことを意味するが、奥州(東北)には奥州に特有の、ある一定の旋律型が存在している。
奥州の本曲は、根笹派錦風流に代表される雄渾・豪快な奏法が特徴だ。根笹派は、コミ(吹き)という、音を断続的に切る特殊な息の使い方があるが、コミ程特殊ではなくとも、何らかの形で激しい息の使い方が特徴だ。布袋軒の鈴慕や産安、越後明暗寺の、鈴慕や三谷などの長大な名曲は、何らかの形で、どこかに必ずこの激しさをもっている。
[歴史研究における「ことば」の重要性] →「ぼろぼろ(暮露)」細川涼一
『ことばの文化史 [中世2]』(網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤進一 編 1989 平凡社)は、以下の部分を含む短い文からなっている。
「歴史研究の史料として文字が大きな比重を占める以上、史料の中のことばを注意深く検討して、史料の作成者および同時代の読者が理解したのと同一の解釈に達することが、文字史料利用の第一の前提でなければならないが、ことばの史的検証というこの自明の前提が見過ごされる傾きはなかったであろうか」
四人の同書編者の共通認識であろうと思われる、この文に意を強くして、筆者は尺八史においてはもちろん、国文学においても名高い『徒然草』百十五段そのものを改めて検証したい。
『ことばの文化史 [中世2]』 網野善彦・笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤進一 編 1989 平凡社
「ぼろぼろ(暮露)」細川涼一 『ことばの文化史 2』中
ぼろぼろは蒙古襲来ころからはじまる、鎌倉末期の荘園制社会の転換期の社会的矛盾を背景とした、特殊な歴史性を帯びて出現した人々である(ことが、兼好の記事からうかがうことができるのである)。144
これまでその実態を中世社会の転換期の中でとらえた研究はなかったといえるであろう。146
『徒然草』がぼろぼろの決闘として描く敵討(私的復讐)それ自体は、自力救済の慣行が広く支配した中世にあって、紛争解決のための一手段として人々に正当な行為として認められた存在であった。159
ぼろぼろが出現した鎌倉末期は、自力救済・私的復讐を慣習として容認する社会から、次第にこれを否定する社会へと移行する、転換期の時代であったといえよう。159
その「放逸無慙」な生き方が、兼好にとって「別世界」の異質なものであったからなのである。160
彼らは打刀をもって諸国を放浪し、喧嘩・殺生をこととした 165
ぼろぼろと薦僧が、紙衣という互いによく似た服装をしていたことがうかがえるであろう。173
五来重 「ぼろに関して」
『日本の庶民宗教』1985 角川書店(選書180)
暮露(梵論字、虚無僧)も禅からでた放浪芸能者であるにかかわらず『徒然草』(百十五段)にあるように、大念仏を修する。 224
「放下僧も暮露も橋聖も、橋や道路や堂塔造営の勧進をするためには、禅の説教とともに踊念仏や曲舞の芸能をしたのである」。224
『日本人の仏教史』H1.角川書店(選書189)
鎌倉末期には禅宗系の放浪芸能者として、暮露と放下があったことはたしかで、暮露は九品念仏(如法念仏)、放下は大念仏で、どちらも念仏芸能者であった。かれらが禅宗に吸収されたのも法燈国師の時代とかんがえられるが、暮露が尺八を腰にさしている図は、室町初期の『七十一番職人歌合』に見えている。←間違いの理由が書いてあるから、助かる!(反論しやすい)
尺八仮託録
1.聖徳太子 「蘇膜者」
2.明恵上人 「ぼろぼろのさうし」
3.慈覚大師・円仁 「引声阿弥陀経」
4.法燈国師・覚(学)心 「興国寺との関連で」
5.一休 「一節切」
禅尺八(古典本曲)総覧
アイウエオ順も考えないでもなかったが、異称・別称を持つ曲があったり(例「突飛喜」=「北国鈴慕」)、呼び名が一定していなかったりする場合もある。また曲の前に伝承寺を冠してあることもないこともあり、マチマチであり、また伝承寺院や経路がはっきりしなかったり、複数あったりする場合も少なくない。
すでに小生は現存する禅尺八曲のほとんどすべてを把握し、難易度別に体系化し終えていること、それにもとずいて公刊した譜もあることから、その順序(初伝~皆伝)を踏襲することにした。ただし明暗真法流は、すでに伝承が途絶え、教わった数曲や、フホウ式の古譜や山上月山師のロツレ式の覆刻などから再構成したものが約30曲ある。また別途、伝承経路のはっきりしない30曲、計60余りは敢えて本則に入れず、このリストからも除いてある。明暗真法流は、最後の伝承者といわれる勝浦正山師が、作譜はされたものの、甲乙(かんおつ・オクターブの高い方と低い方)の表記があいまいであり、門人の問いにも「どちらで吹いてもよい」と言われたそうだ。都山・琴古を経て、本曲研究を始めて40年。吹禅としてはもちろん、舞台などで音楽として吹いてもその魅力がじゅうぶん伝わる曲は100曲程度だと思う。ここに掲げる本則134曲はそれらを完全に網羅して余りあるはずだ。
禅尺八解題
初伝
1、調子 別に「大和調子」という曲があるため、それと区別するために「京調子」と呼ぶこともある。禅尺八の一つの根幹をなす、浜松普大寺から京都に移植された最古の十二曲の初めの曲であり、禅的深みのある曲調からしばしば京都明暗寺系の他の曲の前吹きに用いられる。ツレーレー、ウーウ
一二三之調 私は、「一二三之調」と「鉢返」は、琴古流から逆輸入されてきたのではないかと考える。ただし、琴古流から、逆に入った本曲はさほどなく、他には名曲「鹿の遠音」がある位か。息の最後を短いメリで止めるが、今日の禁古ではその前に極端に間合いをあけ、オトシの部分も切る(スタッカート)が、本曲ではそのようには吹かない。
鉢返 甲(カン)音で多く構成されている曲。
音取理