21年も前になるのですが、セドナ・ツアーの時の小文、出てきたので
セドナ・ツアー
小生の吹禅尺八 (の微妙な響き)を高く評価する千坂さんの発案で、セドナ・ツアーが企画された。諸方に声をかけ、2月のリサイタルでも紹介。18歳から72歳までの総勢25名の楽しく充実した旅が始まった。
1980年代後半、私は3回にわたり演奏や指導でアメリ力東西岸を廻った。この時、邦貨5千万円のレトロ・メルセデスで、アレックス老人がシェスタ山のそばまで連れて行ってくれた。この時、もう一つの聖地としてセドナのことは聞いた。
評判に違わず、セドナの気は澄み、写真では決して再現できないその美しく微妙な赤茶けた岩の色は、いつまで見ていても飽きなかった。
着いてすぐのコンサートは、アッという間に終わった。開始早々高いびきが聞こえ、何曲目かに再び耳に入ったので、とっさに「生の音楽を聴いてるのは最高の贅沢だけど、風邪を引かないようにね」と当意即妙に英語で言ったら、これがバカ受け。以後止まらなくなり、好き放題しゃべりまくった。会場が賑やぎ、それに応じて突如ビートルズを吹く。舞の秋草さんの賛助出演は、「急かさず遅れず」邪魔にならないようにだけ気をつけ即興した。ホール側は、「今度は主催するから、またやってくれ」と言ってくれているようだが、まあ社交辞令として聞いておこう。
セドナは、近隣はもちろんアメリカのどの街にも似ていない。まるで地球外のどこかや異次元空間から突然ブレゼントされたような景色だ。ここでは、数々の超常現象が報告され、療養に訪れる人も多いというのも頷ける。今回迷子が出て、好天の白日の下でのピクニック気分?の大捜索が展開されたが、その際撮れた写真には、地面から垂直に上昇する靄・雲状のエネルギーが、はっきり写っていた。セドナの人たちは「神様はグランド・キャニオンを創ったかもしれないけど、住んでいるのはセドナだ」という小話に、自分たちのプライドを託す。
ホビ集落ヘ
セドナ・ツアーは、さらにホビの集落をも訪聞するという膨らみを見せていた。
有名な「ホピの子言」では、ホピ族の未来は地球のそれとリンクし、ホピが物質文明に汚染される時、母なる地球も大いに病んで、その存亡が危うくなるそうだ。インディアン諸部族で最も精神性が高いというホピ族の、日頃は外部の人間は立ち入れない奥の院まで見せてもらえるという今回の好機は、嬉しくも怖くもあった。自分の生き方も間われるのではないかと思ったからだ。だが、心配は不要だった。ホビの女性原理のやさしさもあろうが、彼らも自分たちのことで精一杯のようだ。グループという、塊になってのわれわれの来訪が、必ずしも歓迎されないことは出発前から聞こえていた。訪間はできたものの、予定されていた文化交流は中止され、そのビジネス臭を嗅ぎとりもした私のホピ感はさまざま錯綜している。
それはそれとして、あのような厳しい自然環境の下、電気も水道もない昔ながらの生活を続ける大変さを思う時、仮の来訪者に過ぎないわれわれは、その不実を責めるより、かの地の人たちの安寧を願うのがエチケットであろうか?
後で思い出したが、3年前の3月22日に私はホピの本を読んでいた(『 ホビ・精霊たちの大地』青本やよひ、PHP)。この日にちは、ちょうど我々が訪ねていた頃だ。あるいは、既にこの時小生のホピ来訪が決まっていたとでもいうのだろうか?
インディアン諸部族の細かい違いは分からないが、伝え聞く”サン・ダンス”は、自己の否定的感情や心の葛藤を昇華させるために、身体に針を刺して踊り続けられるのだという。このような行を堅持している人達の複数の生の声に触れて、わたしのインディアン文化への興味と尊敬は、大きく広がっている。
テントの中で熱石の発する高温の下、心身を浄化させるスウェット・ロッジにも参加した。虫か、あるいは植物にかぶれたか、左太股が4〜5箇所にわたってえらく腫れた。その名残は、「まるで、かの地での体験を忘れないように」と促しでもするかのように、今でも健在(顕在)する。
サンフランシスコ単独行
さて、ツアーの仲間とロスで別れて、一人シスコへ。バス並に頻発するジェット機でたかだか53分のフライトは、ベタ遅れで倍の時間がかかった。迎えにきた弟子のバリーは、「遅れるのはしょっちゅうですよ」と平然と待っていた。
12年ぶりの懐かしのサンフランシスコ。車窓からの町の佇まいは、昔とあまり変わっていないように見えた。ただし、車は増え、野球場は新しい素敵なものになった(ここで私が帰った翌日イチロー選手がSFジャイアンツとのオープン戦に出場。その後の活躍は、ご案内の通り)。
コンピューターを業とする弟子のバリーは年に何度も仕事で来日し、その都度稽古に来た。隣町のバークリー校の数学教授ロビン(かつては、彼の家に止宿)も呼びつけ、本曲を共に吹き、昔話に花が咲く。
サンフランシスコヘも何度か出かけた。本屋、楽譜屋、そして生のクラシック音楽。オープン・リハーサルというのを聴いた。指揮者のイッセルシュテットは、時々突然客席に向き直り、「サンフランシスコ響の優秀な諸君なら、この微妙なニュアンスの違いをきっと表現してくれると確信して、小生はこだわっておるのですよ」と、達者な英語でユーモアを交えて聴衆に話しかけ、繰り返し練習に対しての理解を得ながらしっかり笑いも取っていた。後半のビアノは、ハンガリー人のシフ。ベートーベンのコンチェルトが繊細かつ軽やかに響いた。新しい堂々たる西岸随一のこのホールも、後からの音響補正のアクリル板がたくさん吊るされている。舞台後景は木の格子造りで、歌舞伎のセットを街彿させる。
車で2、3時間のサンタ・クルーズには、現地の鍼灸学校を出て開業しているチクリンがいる。最近事故に遭って少しメゲていると聞いたので、会いにゆく。道が混むので早めに帰るつもりも、夕飯を一緒に摂った。
『医道の日本』などに書いたチクリンの記事から、アメリカの代替医療の活況を知り刺激を受けた。しばらくオクラ入りさせていたわが磁場共鳴(波動)健康予測も、しっかり結果(成果)が出ているので、ちゃんとやらなければ・・・との思いを強くした。