自己啓発

度々の旅

セドナ・ツアー (2001年3月)

21年も前になるのですが、セドナ・ツアーの時の小文、出てきたので

セドナ・ツアー
小生の吹禅尺八 (の微妙な響き)を高く評価する千坂さんの発案で、セドナ・ツアーが企画された。諸方に声をかけ、2月のリサイタルでも紹介。18歳から72歳までの総勢25名の楽しく充実した旅が始まった。
1980年代後半、私は3回にわたり演奏や指導でアメリ力東西岸を廻った。この時、邦貨5千万円のレトロ・メルセデスで、アレックス老人がシェスタ山のそばまで連れて行ってくれた。この時、もう一つの聖地としてセドナのことは聞いた。
評判に違わず、セドナの気は澄み、写真では決して再現できないその美しく微妙な赤茶けた岩の色は、いつまで見ていても飽きなかった。
着いてすぐのコンサートは、アッという間に終わった。開始早々高いびきが聞こえ、何曲目かに再び耳に入ったので、とっさに「生の音楽を聴いてるのは最高の贅沢だけど、風邪を引かないようにね」と当意即妙に英語で言ったら、これがバカ受け。以後止まらなくなり、好き放題しゃべりまくった。会場が賑やぎ、それに応じて突如ビートルズを吹く。舞の秋草さんの賛助出演は、「急かさず遅れず」邪魔にならないようにだけ気をつけ即興した。ホール側は、「今度は主催するから、またやってくれ」と言ってくれているようだが、まあ社交辞令として聞いておこう。
セドナは、近隣はもちろんアメリカのどの街にも似ていない。まるで地球外のどこかや異次元空間から突然ブレゼントされたような景色だ。ここでは、数々の超常現象が報告され、療養に訪れる人も多いというのも頷ける。今回迷子が出て、好天の白日の下でのピクニック気分?の大捜索が展開されたが、その際撮れた写真には、地面から垂直に上昇する靄・雲状のエネルギーが、はっきり写っていた。セドナの人たちは「神様はグランド・キャニオンを創ったかもしれないけど、住んでいるのはセドナだ」という小話に、自分たちのプライドを託す。

ホビ集落ヘ
セドナ・ツアーは、さらにホビの集落をも訪聞するという膨らみを見せていた。
有名な「ホピの子言」では、ホピ族の未来は地球のそれとリンクし、ホピが物質文明に汚染される時、母なる地球も大いに病んで、その存亡が危うくなるそうだ。インディアン諸部族で最も精神性が高いというホピ族の、日頃は外部の人間は立ち入れない奥の院まで見せてもらえるという今回の好機は、嬉しくも怖くもあった。自分の生き方も間われるのではないかと思ったからだ。だが、心配は不要だった。ホビの女性原理のやさしさもあろうが、彼らも自分たちのことで精一杯のようだ。グループという、塊になってのわれわれの来訪が、必ずしも歓迎されないことは出発前から聞こえていた。訪間はできたものの、予定されていた文化交流は中止され、そのビジネス臭を嗅ぎとりもした私のホピ感はさまざま錯綜している。
それはそれとして、あのような厳しい自然環境の下、電気も水道もない昔ながらの生活を続ける大変さを思う時、仮の来訪者に過ぎないわれわれは、その不実を責めるより、かの地の人たちの安寧を願うのがエチケットであろうか?
後で思い出したが、3年前の3月22日に私はホピの本を読んでいた(『 ホビ・精霊たちの大地』青本やよひ、PHP)。この日にちは、ちょうど我々が訪ねていた頃だ。あるいは、既にこの時小生のホピ来訪が決まっていたとでもいうのだろうか?
インディアン諸部族の細かい違いは分からないが、伝え聞く”サン・ダンス”は、自己の否定的感情や心の葛藤を昇華させるために、身体に針を刺して踊り続けられるのだという。このような行を堅持している人達の複数の生の声に触れて、わたしのインディアン文化への興味と尊敬は、大きく広がっている。
テントの中で熱石の発する高温の下、心身を浄化させるスウェット・ロッジにも参加した。虫か、あるいは植物にかぶれたか、左太股が4〜5箇所にわたってえらく腫れた。その名残は、「まるで、かの地での体験を忘れないように」と促しでもするかのように、今でも健在(顕在)する。

サンフランシスコ単独行
さて、ツアーの仲間とロスで別れて、一人シスコへ。バス並に頻発するジェット機でたかだか53分のフライトは、ベタ遅れで倍の時間がかかった。迎えにきた弟子のバリーは、「遅れるのはしょっちゅうですよ」と平然と待っていた。
12年ぶりの懐かしのサンフランシスコ。車窓からの町の佇まいは、昔とあまり変わっていないように見えた。ただし、車は増え、野球場は新しい素敵なものになった(ここで私が帰った翌日イチロー選手がSFジャイアンツとのオープン戦に出場。その後の活躍は、ご案内の通り)。
コンピューターを業とする弟子のバリーは年に何度も仕事で来日し、その都度稽古に来た。隣町のバークリー校の数学教授ロビン(かつては、彼の家に止宿)も呼びつけ、本曲を共に吹き、昔話に花が咲く。
サンフランシスコヘも何度か出かけた。本屋、楽譜屋、そして生のクラシック音楽。オープン・リハーサルというのを聴いた。指揮者のイッセルシュテットは、時々突然客席に向き直り、「サンフランシスコ響の優秀な諸君なら、この微妙なニュアンスの違いをきっと表現してくれると確信して、小生はこだわっておるのですよ」と、達者な英語でユーモアを交えて聴衆に話しかけ、繰り返し練習に対しての理解を得ながらしっかり笑いも取っていた。後半のビアノは、ハンガリー人のシフ。ベートーベンのコンチェルトが繊細かつ軽やかに響いた。新しい堂々たる西岸随一のこのホールも、後からの音響補正のアクリル板がたくさん吊るされている。舞台後景は木の格子造りで、歌舞伎のセットを街彿させる。
車で2、3時間のサンタ・クルーズには、現地の鍼灸学校を出て開業しているチクリンがいる。最近事故に遭って少しメゲていると聞いたので、会いにゆく。道が混むので早めに帰るつもりも、夕飯を一緒に摂った。
『医道の日本』などに書いたチクリンの記事から、アメリカの代替医療の活況を知り刺激を受けた。しばらくオクラ入りさせていたわが磁場共鳴(波動)健康予測も、しっかり結果(成果)が出ているので、ちゃんとやらなければ・・・との思いを強くした。

自分を識る

自己啓発の真髄

自己啓発の真髄――人生で大切な、たった一つのこと「自分を識る」――

自己啓発セミナーからワークショップへ
私は、1980年代の約10年間、「自己啓発セミナー」のトレーナーとしてライフ・ダイナミクスに次ぐ業界第二位のiBDセミナーのベイシック・プログラムを、ほぼ毎月担当していた。ギターや尺八を教え、高校の非常勤講師として倫理や世界史などを担当しながらの、忙しくも充実した日々だった。セミナーで提唱されていた、「今・ここ」で、「気づき」「体験する」ことを基本にするレクチュアは、とても新鮮で、世の中や学校教育に欠けていたものを見事におぎなっていたように思う。セミナーは、「自己成長」という抽象的な目的のために、自ら、主体的に、時間とお金を投資するという日本人にとっては初めての体験だったのかもしれない。
iBDセミナーでは、参加された1万人以上の方々の、さまざまな人生を垣間見させてもらった。百数十回もやってゆくうち、プログラムのインパクトに依らない、静かで、自発的な「気づき」を導くようなものを試してみたくなった。こうして『ワークショップ・ウイズ』ができた。
ウイズでは、自己啓発セミナーの根幹をなすマズローなどの「人間性の心理学」を踏襲しながらも、日本語の肌触りを大切にして、用語も工夫した。たとえば、「人生は認識である」とし、その中でも「自己認識」、つまり自分が自分のことをどう思い、どのように受けとっているのかを、体験的に識ることを目的にした。そして、それを端的に示すために「自分を識る」という標語ができた。自分を識るは、ワークショップ全体を統合する語でもあり、本稿でもこの線に沿って記してゆく。
さて、自分を識るというのは、古代ギリシャでは、「汝自身を知れ(グノティ・サウトン)」としてデルフォイの神殿に刻まれていた(この語はソクラテスの座右の銘でもあったという)。この語の作者として仮託されているギリシャの七賢の一人が、哲学の祖とされるタレスだ。タレスは、イオニア自然哲学を創始し、神話・物語の世界を脱して、自らの頭で万物の根源を追求し、「グノティ・サウトン(汝自身を知れ)」の作者として仮託されている。 (さらに…)

度々の旅

ギリシャ旅行

1972年秋、オーストリアのザルツブルグに居た私は、思い立ってギリシャに向かった。アテネのアクロポリスとデルフォイの神殿というギリシャの二大聖地を訪ねるためだ。
夕方、ザルツブルグから乗った列車は、夜には終点の社会主義国・ユーゴスラヴィアのザグレブ(今は、クロアチアの首都)についた。ここで一泊し、翌早朝の汽車をつかまえて一昼夜かけると終点のアテネだ。収入のない分際ゆえ、一番安く行けるコースを工夫した。ユーゴ人の知り合いから、予予「チトーという偉大な政治家のおかげで、ユーゴは(小国ながらも)ソ連・中共とならぶ社会主義の三大中心地だ」と自慢されていたので、楽しみにしていた。着いたユーゴは、まるっきり暗かった。街も人もくすんでいて、およそ活気というものがない。「欲を封じた社会は、人をこんなにさせるのか」とゾッとした。
乗りそびれてはならないので、翌朝早々駅に行った。ところが、予定されている列車は待てど暮らせど来ない。昼もとっくに廻ったのに、アナウンスも告知も一切なく、時々モノ乞いの子どもが連れ立って来ただけだった。半日近くも駅のホームでへたり込み、疲れも痺れも焦りも感じなくなった頃、長旅でほこりだらけの列車が突然現れた。反射的に身を起こし、列車に乗り込んだのはいいが、通路まで足の踏み場もないくらいの人人人。出稼ぎ労働者の帰還の群れだった。陸路、はるばるギリシャまで行く列車はこれしかない。幸運にも、たった一つ空いていた席を見つけ一息ついた。この先、とんでもない悲劇?が待ち受けていようなどとは知る由もなく・・・。 (さらに…)

インド哲学

わかりやすい?インド思想のお話し(1)

ご挨拶
 初めまして。小谷能久と申します。今から30年以上前に、縁あって徳山隆先生に吹禅尺八の手ほどきをしていただきました。インド思想、特にヨーガ(瞑想修行の方法、仏教のヨーガ派は漢訳では瑜伽行派)の思想に興味を持ち、東方学院、東洋大学を経由して、何とか京都大学文学部大学院修士課程(インド哲学史)に入学でき、仏教を含めたインド思想をある程度学ぶことができました。
しかし、7世紀頃からインドで発展してきた『タントラ』という宗教運動・体系が何ともわからなかったため、2000年にインドに渡り、運よく良い先生に巡り合え、結果的に6年ほどガンジス川のほとりにあるヴァーラーナシー(長すぎるので以下、ヴァラナシ)で過ごしました。ヴァラナシは、インドの中でも暮らしにくい土地とされていますが、それでも外国人研究者・学生が何人も滞在していました。結果的に、タントラを含めたインド宗教思想の体系が自分なりに理解でき、後で考えると『会うべき人』にも出会え、厳しいながらも良い6年間だったと思っています。
 日本の一般の方の『インド哲学』のイメージとしては、『深遠な』と形容されたり、わけがわからない小難しい感じとかゴータマブッダや仏教のイメージかと思います。日本の学問の世界では、仏教学でも、論理学・認識論が主流の一つとなっていて、一般の方たちの興味とはずれている傾向があります。私自身、小難しい分野にはあまり興味がなく、入門的文献を少し読んだ程度です。
 このコラムでは、インドの宗教思想の流れ全体を、私自身の理解を独断と偏見を交えてお伝えできればと思っています。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.5

西欧文明の伝道者ゴードンに出会うまで

岡部さん病が嵩じて、京都のお寺にすっかり魅せられたのはいいが、泊まるところには毎度苦労した。今の京都は、それこそもう毎日お祭りで凄まじいが、昔もそれなりに混んでいた。宇多野にある大きなユース・ホステルは、まず予約が取れなかった。それでも一度だけ泊まれた時のこと。当時は、尺八の上達のさまが自分でも見て取れたので、どこへ行っても吹いていた。

宇多野ユースの広い庭で、迷惑にならないよう隅の方で遠慮がちに練習していると、アメリカ人夫婦が声を掛けてきた。これがキムとロージーというバチェラー(学士)さん夫婦だ(旦那さんはどこかの州の弁護士さんだった)。何日か同じテーブルで夕食をとり、すっかり仲良くなった。最後の日、しんみり別れを惜しんでいると、遠慮がちに若い外国人が割り込んできた。これがドイツの青年ヘルマン・シューベルト。

彼は医学生で、姓はシューベルトでも顔はポール・マッカートニーそっくり。性格はまじめで勉強熱心。今は、アメリカで結婚してニューヨークの医科大学の眼科の教授をしているという。このヘルマンが、日本人商社マンと結婚した親戚のブリギータのところにいるので、東京で会おうと言ってきた。当方には異存もなく南青山まで会いに行った。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.4

二度目の岡部さん訪問の頃
京都の岡部さんにお会いするという長年の宿願をはたし、大学生活はそれなりに安定していた。京都にはしばしば行ったが、岡部さんにお会いしたのは都合三回。その二度目について長らく記憶の外にあったが、あることをキッカケで思い出した。
今は博報堂で要職に就いている同じ美学専攻のH君がいた。彼が『声明(しょうみょう=仏教のお経に節をつけたもの。ちなみに、その譜面は博士とよばれる)』で卒論を書くため、その世界(天台声明)の第一人者・京都大原・実光院の住職・天納伝中師をお訪ねするという。「一緒に行こうよ」と誘われ、ついていった。

H君はフランス語クラスではあったが、声楽をやっていること、日本の音曲で卒論を書くという私との共通点があった。当時の私は、尺八を始めて4年目位の吹き盛り。ある時、歴史を調べていたら、今の筝曲合奏中心の流派の尺八や、民謡や詩吟の伴奏のものとは別に、それ以前の禅の流れを汲む独奏曲群はほとんど伝える人がいないという。このことを知って私は、この流れを絶やさないことをライフ・ワークにしようと決めつつあった(ただし、私の卒論のテーマは、今の筝曲の元になった地唄で、オーケストラでバイオリンを弾いていた同じ美学のS君が禅の虚無僧尺八を選んだ)。

ちなみに、京都に一緒に行ったH君の父君は当時ベスト・セラーになったドラッカーの『断絶の時代』を訳した東工大の先生(私がとても感心したダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』なども訳しておられたと今回初めて知った)。伯父さんは東大の元総長。兄弟はH・望氏だ(とまで書いては、匿名の意味がないか?)。

夏の盛りの暑い夜、大原の実光院に天納伝中師をお訪ねした。障子を開け放した和室から庭が見通せた。余分なものを一切持たず、竹一管、本数冊で暮らすのを理想とするなら、実光院のこの部屋が一つの理想だ。

翌日、岡部さんに会いにいった際、こんな諸々をお話しすると、天納師のことをよくご存じだった。また、親しい人として司馬遼太郎さんの名前もあげておられた。声明名人・天納師とは、何年か後、私が日暮里のお寺を借りて尺八を教えるようになってから、東京でお会いした。それには次のような経緯がある。

大学卒業後、十か月ほどヨーロッパに滞在した。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.3

ご対面
北白川の通りを少し入った所に、岡部さんのお宅はあった。
和風の格子戸を開けると、お手伝いさんとおぼしきエプロン姿の若い女性が出てきて、応接間に通してくれた。程なく和服姿の岡部さんが現れ、簡単な挨拶の後、開口一番言われたのが、「私、駆け落ちがしたいのよ」だった。想像もつかない予想外のお言葉に、のっけから話の接ぎ穂を失った。帰りは外がすっかり暮れていたので、ずいぶん長い時間、取り留めのない気まぐれな若者の話にお付き合いいただいたようだ。何を話したかはまったく覚えていない。脈絡のない、ただし真剣さだけはたっぷりの、生硬な人生に対する思いの丈のようなものをぶちまけただけだったような気がする。岡部さんは一切遮ることなく全部聞いてくれた。唯一、チラッと覚えているのは、岡部さんの随筆のファンの方が、病弱な岡部さんを気遣って住み込みのお手伝いさんを志願されることがある、という話だ。そんな時は、お受けすることもあるのだが、それも数ヶ月とか期限を区切っての話だという。お互いの(精神的)自立のためには、そうすることがふさわしいというようなことだった。帰り際、最近、生まれて初めて作詞というものをした曲だと言う女声コーラスのLPレコードを下さった。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.2

新たな出会い・ついに京都へ
こんな不毛な?中学時代のある日のこと。たまたま、夕方のNHK教育テレビが目に入った。世界的に有名な数学者で、奈良女子大学の教授だというゴボウのように痩せて皺々のお爺さんが話していた。岡潔さんという人だった。名前位は聞いたことがあった(後日彼の本『春宵十話』も買った)。私の眼を惹いたのは、その対談相手の着物を着た女性の方だった。京都に住む随筆家だという。岡氏のことばに、時々下を向いたりしながらも、うなずく女性の仕草やまなざしがとても真剣だった。そのやさしさや、人間的深みや大きさのようなものが、白黒の小さな画面からでも伝わってきた。知らず識らずテレビに近づき、居ずまいを正して聞き入った。私はいっぺんでこの人に興味をもった。ノンベンダラリと成り行きまかせで生きてきたが、フト、「いつかこの人に会ってみたい、話をしてみたい」と思い始めた。殺伐とした、空しい日々に、一筋の光が射したような気分だった。「京都、京都、京都」と、頭の裡で呪文がグルグル廻った。翌年の夏休み(たしか中三)、両親の郷里の岡山に独りで向かうとき、京都で途中下車した。自分としては(京都のどこかにおられるこの人に会う)予行演習のつもりだった。炎暑の京都はお寺だらけで、それがまた良かった。一遍でこの街が気に入った。
こうして、高校時代を通じて蓄えられた京都への憧憬は、大学生になって爆発する。休みという休みは、直接京都へ向かうか、四国や九州へ行くにしても、必ず京都へは立ち寄った。
当時は、東海道新幹線はできて程なく、学生には高嶺の花。もっぱら在来線の夜行急行『銀河』に乗った。もちろん寝台などの贅沢はせず、木枠に質素な緑のフェルトが張ってあるような三等車だ。夜十時半頃東京駅を出ると、翌早朝京都に着くので、まことに都合がよかった。作るときにひと悶着あった京都タワーとてまだなく、いつも東寺の五重塔が迎えてくれた。
宿は、たいてい嵐山に近い鹿王院だった。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.1

疾風怒濤の中学時代
大学生の時のグループ・ワーク体験がiBDセミナーにつながり、ワークショップ・ウイズになっていった。ここに至るまでの、意識の長い道のりはもっと早くに始まっている。そこで、中学生の頃のことから始めたい(ご他聞に洩れず、私もこの頃、自我が目覚め始めたようだ)。
疾風怒濤の反抗期だからといって許されることではなかろうが、当時の私は、大人をバカにし、まわりに壁をつくり、そんな自分を持て余していた。今思えば、単純で安直、かつワン・パターンの独りよがりの正義感をふりまわしていただけだった。自意識が尖り、見るもの聞くものすべてを否定していた赤面の時代だ。
寡黙で短気な父とは、小学校の高学年頃から、時々ぶつかった。取っ組み合っていつもタンスのそばまでブッ飛ばされるのは自分の方だった。気まぐれな自分の感情が暴発して事は起こる。だから非はいつでも自分にあった。中学生になったある日、恒例の“合戦”が始まった。この時、いつもと勝手が違ったのは、ぶっ飛んだのはオヤジの方だったからだ。お互いショックだったのだろう。この日を境に合戦はパッタリ止んだ。
区立の中学校は、まるで面白くなく、窓の外ばかり見ていた。道路をはさんで都立の養育院があった。院長を長く務めた渋沢栄一のデカイ銅像がそびえていた。
学校では、一度だけ奇蹟が起きた。代講かなにかで、新しい英語の先生が来た。中年の女性だったが、教え方が実にうまい。さっぱりした気性で、ハキハキ・キビキビ、小気味よいテンポで授業を進めていった。
(さらに…)

自分を識る

2019/12/03 1.自己啓発セミナーは、自己を啓発しない。

 自己啓発セミナーは、自己を啓発するわけではない。
 そもそも啓発主体である自分とは誰か。いったい自分とは何者であって、自らの人生に何を求めるのか。何を目的として人生を生きているのか、という日ごろ一顧だにされない、しかし本当はとても大切な事柄に、妥協なしに真正面から向き合う貴重なチャンスを提供する場だった。そして、ある種抽象的なこの目的に対する根源性こそが、私が気に入り長く関わってきた理由でもある。だからこそ、多くの人にとって時間とお金を投資する意味や価値があったのだ。であるならば、そこでできた関りは、とても大切で、ずっと続いてゆくのはむしろ自然なことなのではないか。
 
 
 
 
 
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