自分を識る

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自己啓発の真髄

自己啓発の真髄――人生で大切な、たった一つのこと「自分を識る」――

自己啓発セミナーからワークショップへ
私は、1980年代の約10年間、「自己啓発セミナー」のトレーナーとしてライフ・ダイナミクスに次ぐ業界第二位のiBDセミナーのベイシック・プログラムを、ほぼ毎月担当していた。ギターや尺八を教え、高校の非常勤講師として倫理や世界史などを担当しながらの、忙しくも充実した日々だった。セミナーで提唱されていた、「今・ここ」で、「気づき」「体験する」ことを基本にするレクチュアは、とても新鮮で、世の中や学校教育に欠けていたものを見事におぎなっていたように思う。セミナーは、「自己成長」という抽象的な目的のために、自ら、主体的に、時間とお金を投資するという日本人にとっては初めての体験だったのかもしれない。
iBDセミナーでは、参加された1万人以上の方々の、さまざまな人生を垣間見させてもらった。百数十回もやってゆくうち、プログラムのインパクトに依らない、静かで、自発的な「気づき」を導くようなものを試してみたくなった。こうして『ワークショップ・ウイズ』ができた。
ウイズでは、自己啓発セミナーの根幹をなすマズローなどの「人間性の心理学」を踏襲しながらも、日本語の肌触りを大切にして、用語も工夫した。たとえば、「人生は認識である」とし、その中でも「自己認識」、つまり自分が自分のことをどう思い、どのように受けとっているのかを、体験的に識ることを目的にした。そして、それを端的に示すために「自分を識る」という標語ができた。自分を識るは、ワークショップ全体を統合する語でもあり、本稿でもこの線に沿って記してゆく。
さて、自分を識るというのは、古代ギリシャでは、「汝自身を知れ(グノティ・サウトン)」としてデルフォイの神殿に刻まれていた(この語はソクラテスの座右の銘でもあったという)。この語の作者として仮託されているギリシャの七賢の一人が、哲学の祖とされるタレスだ。タレスは、イオニア自然哲学を創始し、神話・物語の世界を脱して、自らの頭で万物の根源を追求し、「グノティ・サウトン(汝自身を知れ)」の作者として仮託されている。 (さらに…)

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グループ・ワークに出会うまで No.5

西欧文明の伝道者ゴードンに出会うまで

岡部さん病が嵩じて、京都のお寺にすっかり魅せられたのはいいが、泊まるところには毎度苦労した。今の京都は、それこそもう毎日お祭りで凄まじいが、昔もそれなりに混んでいた。宇多野にある大きなユース・ホステルは、まず予約が取れなかった。それでも一度だけ泊まれた時のこと。当時は、尺八の上達のさまが自分でも見て取れたので、どこへ行っても吹いていた。

宇多野ユースの広い庭で、迷惑にならないよう隅の方で遠慮がちに練習していると、アメリカ人夫婦が声を掛けてきた。これがキムとロージーというバチェラー(学士)さん夫婦だ(旦那さんはどこかの州の弁護士さんだった)。何日か同じテーブルで夕食をとり、すっかり仲良くなった。最後の日、しんみり別れを惜しんでいると、遠慮がちに若い外国人が割り込んできた。これがドイツの青年ヘルマン・シューベルト。

彼は医学生で、姓はシューベルトでも顔はポール・マッカートニーそっくり。性格はまじめで勉強熱心。今は、アメリカで結婚してニューヨークの医科大学の眼科の教授をしているという。このヘルマンが、日本人商社マンと結婚した親戚のブリギータのところにいるので、東京で会おうと言ってきた。当方には異存もなく南青山まで会いに行った。
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グループ・ワークに出会うまで No.4

二度目の岡部さん訪問の頃
京都の岡部さんにお会いするという長年の宿願をはたし、大学生活はそれなりに安定していた。京都にはしばしば行ったが、岡部さんにお会いしたのは都合三回。その二度目について長らく記憶の外にあったが、あることをキッカケで思い出した。
今は博報堂で要職に就いている同じ美学専攻のH君がいた。彼が『声明(しょうみょう=仏教のお経に節をつけたもの。ちなみに、その譜面は博士とよばれる)』で卒論を書くため、その世界(天台声明)の第一人者・京都大原・実光院の住職・天納伝中師をお訪ねするという。「一緒に行こうよ」と誘われ、ついていった。

H君はフランス語クラスではあったが、声楽をやっていること、日本の音曲で卒論を書くという私との共通点があった。当時の私は、尺八を始めて4年目位の吹き盛り。ある時、歴史を調べていたら、今の筝曲合奏中心の流派の尺八や、民謡や詩吟の伴奏のものとは別に、それ以前の禅の流れを汲む独奏曲群はほとんど伝える人がいないという。このことを知って私は、この流れを絶やさないことをライフ・ワークにしようと決めつつあった(ただし、私の卒論のテーマは、今の筝曲の元になった地唄で、オーケストラでバイオリンを弾いていた同じ美学のS君が禅の虚無僧尺八を選んだ)。

ちなみに、京都に一緒に行ったH君の父君は当時ベスト・セラーになったドラッカーの『断絶の時代』を訳した東工大の先生(私がとても感心したダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』なども訳しておられたと今回初めて知った)。伯父さんは東大の元総長。兄弟はH・望氏だ(とまで書いては、匿名の意味がないか?)。

夏の盛りの暑い夜、大原の実光院に天納伝中師をお訪ねした。障子を開け放した和室から庭が見通せた。余分なものを一切持たず、竹一管、本数冊で暮らすのを理想とするなら、実光院のこの部屋が一つの理想だ。

翌日、岡部さんに会いにいった際、こんな諸々をお話しすると、天納師のことをよくご存じだった。また、親しい人として司馬遼太郎さんの名前もあげておられた。声明名人・天納師とは、何年か後、私が日暮里のお寺を借りて尺八を教えるようになってから、東京でお会いした。それには次のような経緯がある。

大学卒業後、十か月ほどヨーロッパに滞在した。
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グループ・ワークに出会うまで No.3

ご対面
北白川の通りを少し入った所に、岡部さんのお宅はあった。
和風の格子戸を開けると、お手伝いさんとおぼしきエプロン姿の若い女性が出てきて、応接間に通してくれた。程なく和服姿の岡部さんが現れ、簡単な挨拶の後、開口一番言われたのが、「私、駆け落ちがしたいのよ」だった。想像もつかない予想外のお言葉に、のっけから話の接ぎ穂を失った。帰りは外がすっかり暮れていたので、ずいぶん長い時間、取り留めのない気まぐれな若者の話にお付き合いいただいたようだ。何を話したかはまったく覚えていない。脈絡のない、ただし真剣さだけはたっぷりの、生硬な人生に対する思いの丈のようなものをぶちまけただけだったような気がする。岡部さんは一切遮ることなく全部聞いてくれた。唯一、チラッと覚えているのは、岡部さんの随筆のファンの方が、病弱な岡部さんを気遣って住み込みのお手伝いさんを志願されることがある、という話だ。そんな時は、お受けすることもあるのだが、それも数ヶ月とか期限を区切っての話だという。お互いの(精神的)自立のためには、そうすることがふさわしいというようなことだった。帰り際、最近、生まれて初めて作詞というものをした曲だと言う女声コーラスのLPレコードを下さった。
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グループ・ワークに出会うまで No.2

新たな出会い・ついに京都へ
こんな不毛な?中学時代のある日のこと。たまたま、夕方のNHK教育テレビが目に入った。世界的に有名な数学者で、奈良女子大学の教授だというゴボウのように痩せて皺々のお爺さんが話していた。岡潔さんという人だった。名前位は聞いたことがあった(後日彼の本『春宵十話』も買った)。私の眼を惹いたのは、その対談相手の着物を着た女性の方だった。京都に住む随筆家だという。岡氏のことばに、時々下を向いたりしながらも、うなずく女性の仕草やまなざしがとても真剣だった。そのやさしさや、人間的深みや大きさのようなものが、白黒の小さな画面からでも伝わってきた。知らず識らずテレビに近づき、居ずまいを正して聞き入った。私はいっぺんでこの人に興味をもった。ノンベンダラリと成り行きまかせで生きてきたが、フト、「いつかこの人に会ってみたい、話をしてみたい」と思い始めた。殺伐とした、空しい日々に、一筋の光が射したような気分だった。「京都、京都、京都」と、頭の裡で呪文がグルグル廻った。翌年の夏休み(たしか中三)、両親の郷里の岡山に独りで向かうとき、京都で途中下車した。自分としては(京都のどこかにおられるこの人に会う)予行演習のつもりだった。炎暑の京都はお寺だらけで、それがまた良かった。一遍でこの街が気に入った。
こうして、高校時代を通じて蓄えられた京都への憧憬は、大学生になって爆発する。休みという休みは、直接京都へ向かうか、四国や九州へ行くにしても、必ず京都へは立ち寄った。
当時は、東海道新幹線はできて程なく、学生には高嶺の花。もっぱら在来線の夜行急行『銀河』に乗った。もちろん寝台などの贅沢はせず、木枠に質素な緑のフェルトが張ってあるような三等車だ。夜十時半頃東京駅を出ると、翌早朝京都に着くので、まことに都合がよかった。作るときにひと悶着あった京都タワーとてまだなく、いつも東寺の五重塔が迎えてくれた。
宿は、たいてい嵐山に近い鹿王院だった。
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グループ・ワークに出会うまで No.1

疾風怒濤の中学時代
大学生の時のグループ・ワーク体験がiBDセミナーにつながり、ワークショップ・ウイズになっていった。ここに至るまでの、意識の長い道のりはもっと早くに始まっている。そこで、中学生の頃のことから始めたい(ご他聞に洩れず、私もこの頃、自我が目覚め始めたようだ)。
疾風怒濤の反抗期だからといって許されることではなかろうが、当時の私は、大人をバカにし、まわりに壁をつくり、そんな自分を持て余していた。今思えば、単純で安直、かつワン・パターンの独りよがりの正義感をふりまわしていただけだった。自意識が尖り、見るもの聞くものすべてを否定していた赤面の時代だ。
寡黙で短気な父とは、小学校の高学年頃から、時々ぶつかった。取っ組み合っていつもタンスのそばまでブッ飛ばされるのは自分の方だった。気まぐれな自分の感情が暴発して事は起こる。だから非はいつでも自分にあった。中学生になったある日、恒例の“合戦”が始まった。この時、いつもと勝手が違ったのは、ぶっ飛んだのはオヤジの方だったからだ。お互いショックだったのだろう。この日を境に合戦はパッタリ止んだ。
区立の中学校は、まるで面白くなく、窓の外ばかり見ていた。道路をはさんで都立の養育院があった。院長を長く務めた渋沢栄一のデカイ銅像がそびえていた。
学校では、一度だけ奇蹟が起きた。代講かなにかで、新しい英語の先生が来た。中年の女性だったが、教え方が実にうまい。さっぱりした気性で、ハキハキ・キビキビ、小気味よいテンポで授業を進めていった。
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2019/12/03 1.自己啓発セミナーは、自己を啓発しない。

 自己啓発セミナーは、自己を啓発するわけではない。
 そもそも啓発主体である自分とは誰か。いったい自分とは何者であって、自らの人生に何を求めるのか。何を目的として人生を生きているのか、という日ごろ一顧だにされない、しかし本当はとても大切な事柄に、妥協なしに真正面から向き合う貴重なチャンスを提供する場だった。そして、ある種抽象的なこの目的に対する根源性こそが、私が気に入り長く関わってきた理由でもある。だからこそ、多くの人にとって時間とお金を投資する意味や価値があったのだ。であるならば、そこでできた関りは、とても大切で、ずっと続いてゆくのはむしろ自然なことなのではないか。
 
 
 
 
 
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