徳山 隆

自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.5

西欧文明の伝道者ゴードンに出会うまで

岡部さん病が嵩じて、京都のお寺にすっかり魅せられたのはいいが、泊まるところには毎度苦労した。今の京都は、それこそもう毎日お祭りで凄まじいが、昔もそれなりに混んでいた。宇多野にある大きなユース・ホステルは、まず予約が取れなかった。それでも一度だけ泊まれた時のこと。当時は、尺八の上達のさまが自分でも見て取れたので、どこへ行っても吹いていた。

宇多野ユースの広い庭で、迷惑にならないよう隅の方で遠慮がちに練習していると、アメリカ人夫婦が声を掛けてきた。これがキムとロージーというバチェラー(学士)さん夫婦だ(旦那さんはどこかの州の弁護士さんだった)。何日か同じテーブルで夕食をとり、すっかり仲良くなった。最後の日、しんみり別れを惜しんでいると、遠慮がちに若い外国人が割り込んできた。これがドイツの青年ヘルマン・シューベルト。

彼は医学生で、姓はシューベルトでも顔はポール・マッカートニーそっくり。性格はまじめで勉強熱心。今は、アメリカで結婚してニューヨークの医科大学の眼科の教授をしているという。このヘルマンが、日本人商社マンと結婚した親戚のブリギータのところにいるので、東京で会おうと言ってきた。当方には異存もなく南青山まで会いに行った。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.4

二度目の岡部さん訪問の頃
京都の岡部さんにお会いするという長年の宿願をはたし、大学生活はそれなりに安定していた。京都にはしばしば行ったが、岡部さんにお会いしたのは都合三回。その二度目について長らく記憶の外にあったが、あることをキッカケで思い出した。
今は博報堂で要職に就いている同じ美学専攻のH君がいた。彼が『声明(しょうみょう=仏教のお経に節をつけたもの。ちなみに、その譜面は博士とよばれる)』で卒論を書くため、その世界(天台声明)の第一人者・京都大原・実光院の住職・天納伝中師をお訪ねするという。「一緒に行こうよ」と誘われ、ついていった。

H君はフランス語クラスではあったが、声楽をやっていること、日本の音曲で卒論を書くという私との共通点があった。当時の私は、尺八を始めて4年目位の吹き盛り。ある時、歴史を調べていたら、今の筝曲合奏中心の流派の尺八や、民謡や詩吟の伴奏のものとは別に、それ以前の禅の流れを汲む独奏曲群はほとんど伝える人がいないという。このことを知って私は、この流れを絶やさないことをライフ・ワークにしようと決めつつあった(ただし、私の卒論のテーマは、今の筝曲の元になった地唄で、オーケストラでバイオリンを弾いていた同じ美学のS君が禅の虚無僧尺八を選んだ)。

ちなみに、京都に一緒に行ったH君の父君は当時ベスト・セラーになったドラッカーの『断絶の時代』を訳した東工大の先生(私がとても感心したダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』なども訳しておられたと今回初めて知った)。伯父さんは東大の元総長。兄弟はH・望氏だ(とまで書いては、匿名の意味がないか?)。

夏の盛りの暑い夜、大原の実光院に天納伝中師をお訪ねした。障子を開け放した和室から庭が見通せた。余分なものを一切持たず、竹一管、本数冊で暮らすのを理想とするなら、実光院のこの部屋が一つの理想だ。

翌日、岡部さんに会いにいった際、こんな諸々をお話しすると、天納師のことをよくご存じだった。また、親しい人として司馬遼太郎さんの名前もあげておられた。声明名人・天納師とは、何年か後、私が日暮里のお寺を借りて尺八を教えるようになってから、東京でお会いした。それには次のような経緯がある。

大学卒業後、十か月ほどヨーロッパに滞在した。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.3

ご対面
北白川の通りを少し入った所に、岡部さんのお宅はあった。
和風の格子戸を開けると、お手伝いさんとおぼしきエプロン姿の若い女性が出てきて、応接間に通してくれた。程なく和服姿の岡部さんが現れ、簡単な挨拶の後、開口一番言われたのが、「私、駆け落ちがしたいのよ」だった。想像もつかない予想外のお言葉に、のっけから話の接ぎ穂を失った。帰りは外がすっかり暮れていたので、ずいぶん長い時間、取り留めのない気まぐれな若者の話にお付き合いいただいたようだ。何を話したかはまったく覚えていない。脈絡のない、ただし真剣さだけはたっぷりの、生硬な人生に対する思いの丈のようなものをぶちまけただけだったような気がする。岡部さんは一切遮ることなく全部聞いてくれた。唯一、チラッと覚えているのは、岡部さんの随筆のファンの方が、病弱な岡部さんを気遣って住み込みのお手伝いさんを志願されることがある、という話だ。そんな時は、お受けすることもあるのだが、それも数ヶ月とか期限を区切っての話だという。お互いの(精神的)自立のためには、そうすることがふさわしいというようなことだった。帰り際、最近、生まれて初めて作詞というものをした曲だと言う女声コーラスのLPレコードを下さった。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.2

新たな出会い・ついに京都へ
こんな不毛な?中学時代のある日のこと。たまたま、夕方のNHK教育テレビが目に入った。世界的に有名な数学者で、奈良女子大学の教授だというゴボウのように痩せて皺々のお爺さんが話していた。岡潔さんという人だった。名前位は聞いたことがあった(後日彼の本『春宵十話』も買った)。私の眼を惹いたのは、その対談相手の着物を着た女性の方だった。京都に住む随筆家だという。岡氏のことばに、時々下を向いたりしながらも、うなずく女性の仕草やまなざしがとても真剣だった。そのやさしさや、人間的深みや大きさのようなものが、白黒の小さな画面からでも伝わってきた。知らず識らずテレビに近づき、居ずまいを正して聞き入った。私はいっぺんでこの人に興味をもった。ノンベンダラリと成り行きまかせで生きてきたが、フト、「いつかこの人に会ってみたい、話をしてみたい」と思い始めた。殺伐とした、空しい日々に、一筋の光が射したような気分だった。「京都、京都、京都」と、頭の裡で呪文がグルグル廻った。翌年の夏休み(たしか中三)、両親の郷里の岡山に独りで向かうとき、京都で途中下車した。自分としては(京都のどこかにおられるこの人に会う)予行演習のつもりだった。炎暑の京都はお寺だらけで、それがまた良かった。一遍でこの街が気に入った。
こうして、高校時代を通じて蓄えられた京都への憧憬は、大学生になって爆発する。休みという休みは、直接京都へ向かうか、四国や九州へ行くにしても、必ず京都へは立ち寄った。
当時は、東海道新幹線はできて程なく、学生には高嶺の花。もっぱら在来線の夜行急行『銀河』に乗った。もちろん寝台などの贅沢はせず、木枠に質素な緑のフェルトが張ってあるような三等車だ。夜十時半頃東京駅を出ると、翌早朝京都に着くので、まことに都合がよかった。作るときにひと悶着あった京都タワーとてまだなく、いつも東寺の五重塔が迎えてくれた。
宿は、たいてい嵐山に近い鹿王院だった。
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自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.1

疾風怒濤の中学時代
大学生の時のグループ・ワーク体験がiBDセミナーにつながり、ワークショップ・ウイズになっていった。ここに至るまでの、意識の長い道のりはもっと早くに始まっている。そこで、中学生の頃のことから始めたい(ご他聞に洩れず、私もこの頃、自我が目覚め始めたようだ)。
疾風怒濤の反抗期だからといって許されることではなかろうが、当時の私は、大人をバカにし、まわりに壁をつくり、そんな自分を持て余していた。今思えば、単純で安直、かつワン・パターンの独りよがりの正義感をふりまわしていただけだった。自意識が尖り、見るもの聞くものすべてを否定していた赤面の時代だ。
寡黙で短気な父とは、小学校の高学年頃から、時々ぶつかった。取っ組み合っていつもタンスのそばまでブッ飛ばされるのは自分の方だった。気まぐれな自分の感情が暴発して事は起こる。だから非はいつでも自分にあった。中学生になったある日、恒例の“合戦”が始まった。この時、いつもと勝手が違ったのは、ぶっ飛んだのはオヤジの方だったからだ。お互いショックだったのだろう。この日を境に合戦はパッタリ止んだ。
区立の中学校は、まるで面白くなく、窓の外ばかり見ていた。道路をはさんで都立の養育院があった。院長を長く務めた渋沢栄一のデカイ銅像がそびえていた。
学校では、一度だけ奇蹟が起きた。代講かなにかで、新しい英語の先生が来た。中年の女性だったが、教え方が実にうまい。さっぱりした気性で、ハキハキ・キビキビ、小気味よいテンポで授業を進めていった。
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自分を識る

2019/12/03 1.自己啓発セミナーは、自己を啓発しない。

 自己啓発セミナーは、自己を啓発するわけではない。
 そもそも啓発主体である自分とは誰か。いったい自分とは何者であって、自らの人生に何を求めるのか。何を目的として人生を生きているのか、という日ごろ一顧だにされない、しかし本当はとても大切な事柄に、妥協なしに真正面から向き合う貴重なチャンスを提供する場だった。そして、ある種抽象的なこの目的に対する根源性こそが、私が気に入り長く関わってきた理由でもある。だからこそ、多くの人にとって時間とお金を投資する意味や価値があったのだ。であるならば、そこでできた関りは、とても大切で、ずっと続いてゆくのはむしろ自然なことなのではないか。
 
 
 
 
 
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度々の旅

2016/3/14 ウィーン演奏記

    ウイーン到着
 二〇一五年十一月、二年がかりで計画してきたウイーンでの三回の演奏会を無事終えた。
 日本大使館文化センター、ウイーン大学(ジャパノロジー科主催)、仏教センター(ウイーン大学哲学科主催)と会場と主催が異なることから、内容も変えた。
 二日の夕方到着し、お世話してくださるブランドル紀子さんに連絡を入れた後、翌日の会場の下見に行った。といっても、歩いて十分かからない位のところの日本大使館だ。通りに面して文化センターの入り口。着いてすぐの夕食は、最近の海外旅行の定番の、成田で買っておいたおにぎりだ。塩気は減るが、機内に長時間閉じ込められ、昼夜逆転している腹には十分だ。ドイツ語圏のホテルでは、部屋にまずポット類は置いてないので、お茶のペット・ボトルを何本も持参、現地でもガスなしの水を買う。丸々一週間滞在するので、バス・地下鉄・路面電車に乗り放題の切符を買う。相互信頼の高い、安定した社会のためか、検札などは来ない。

   二日目
翌日、路面電車に三十分ほど乗り、ベートーベンが遺書を書いたことで有名な街・ハイリゲンシュタットへ。
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度々の旅

2013/1/3 お年賀

明けましておめでとうございます。本年もよい年でありますように。当方は相変わらず、好きなことをやっています。日本語学校の校長として、週に二日だけ通っています。暮れには、京都、上海と旅先でした。

10月にエストニアに行ったおり、今ぐらいの温度だったので、今年はあまり寒さが気にならないような気がします。そのときの演奏の様子、(アンコール七回の独奏会のものは、あまり良い写真がないので)別途教会で、ドイツ人、イラン人、デンマーク人などと一緒にやったもの、添付しておきます。もう一枚は、15世紀のハンザ同盟の頃の再現木造船の内部での写真。とても寒いので、現地人手作りの50度くらいのお酒で寒さをしのいでいました。夫婦で映っているのは、今回買った絵と同じ構図です(左手に持っているのがその絵です)。最初に行った8年前は、家内を伴奏に同伴。この坂を上って左に曲がった教会付属の平屋の施設に泊まり、毎日この坂を下って、音楽祭指定のインド人のやっている中華レストラン
に食べに行きました。今回再訪してみたら、宿坊は廃屋に、レストランは代替わりしていました。

人間を識る

2010/4/24 故竹林孝枝さんのご葬儀について

徳山 隆です。
セミナーや竹音気(玄米菜食や吹禅尺八の会)でお世話になった畏友、チクリンこと竹林孝枝さんが、4月15日お亡くなりになりました。

通夜は身内だけで行い、告別式はご両親のおられる熱海でということで、皆さんにご参列いただくのは、容易ではないとは思いますが、われわれの仲間にチクリンのような素晴らしい存在があったこと、彼女との生前の縁を偲んで、こころの中でご焼香いただきたくご連絡差し上げました。また、チクリンとご縁のあった方は他にもたくさんおられると拝察しています。上記のご連絡差し上げた方々以外にどなたか存知よりの方がおられたら、ぜひ転送して故人の思い出をしのぶよすがにしていただきたく、お願い申し上げます。

  告別式
  4月20日(火) 午前10時~
  於 熱海市営斎場 熱海市熱海1802-1(JR来宮駅より8km、車で10分、姫の沢公園のそば)

小生にとっては、上記の活動の他、彼女がアメリカに嫁がれた際の証人(かの地における結婚成立を保証する書類上の仲人のようなものでしょうか)を引き受け、また80年代の5度にわたる全米演奏ツアーのマネージャーをやってくれました。その後、チクリンは東洋医学の資格をとり現地で開業。そこも訪れたことのある小生には、仕事も順調で永住希望と聞いていましたが、熱海でリタイア生活をしておられるご両親のこともあり、帰ってきました。

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度々の旅

2009/10/3 ドイツ旅行

6月最終週、家内の休みを利用して、ドイツだけ見る9日間のツアーに参加した。
 大手旅行社の普通のツアー、それも安かったので(われわれのように)他のプランから乗り換えてきた人たちもいて、総勢ナント39人。
 この人数では、全体としてまとまったり、交流することはあり得ないだろうと思って出かけたが、予想は完全にハズれ。超積極的な二組の夫婦が触媒になり、団体旅行にありがちな垣根はかなり取り払われた。夫唱婦随とはよく言ったもので、両国の人形屋さんと、三沢の退職校長さんには、旦那の超外向性に勝るとも劣らない奥さんがついていて、夫婦で積極外交をやった。これがかなり全体に伝播したといえよう。
86歳の一人旅の男性や、浄土宗の二人の尼さんもいて、彼らは存在そのものが目立っていた。86歳といえば、同居しているウチの義母より二つ上だ。義母は、75、6歳までは世界中(それも辺境地帯)を旅し、今でも詩吟や書道の教室に一人電車で出かける。それでも、最近は長時間の乗り物は辛いというのだから、それを考えると86歳の一人旅などというのは、奇跡に近い。もっとも、この男性も暗いところでは視力が極端に落ち、部屋では持参の無呼吸症候を緩和させるための機械をつけっ放しにして寝ているという。年齢がわかり、このような事情を伺ってからは、私はそれとなく労わっていた。ご自分の入院にショックを受けた奥さんが先に逝かれたこと、独りになってからはデイ・ホームなどでも自分の方から積極的に関わるよう努力されていることなど、いろいろなお話を伺った。

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