度々の旅

ギリシャ旅行

投稿日:2020-12-11 更新日:

1972年秋、オーストリアのザルツブルグに居た私は、思い立ってギリシャに向かった。アテネのアクロポリスとデルフォイの神殿というギリシャの二大聖地を訪ねるためだ。
夕方、ザルツブルグから乗った列車は、夜には終点の社会主義国・ユーゴスラヴィアのザグレブ(今は、クロアチアの首都)についた。ここで一泊し、翌早朝の汽車をつかまえて一昼夜かけると終点のアテネだ。収入のない分際ゆえ、一番安く行けるコースを工夫した。ユーゴ人の知り合いから、予予「チトーという偉大な政治家のおかげで、ユーゴは(小国ながらも)ソ連・中共とならぶ社会主義の三大中心地だ」と自慢されていたので、楽しみにしていた。着いたユーゴは、まるっきり暗かった。街も人もくすんでいて、およそ活気というものがない。「欲を封じた社会は、人をこんなにさせるのか」とゾッとした。
乗りそびれてはならないので、翌朝早々駅に行った。ところが、予定されている列車は待てど暮らせど来ない。昼もとっくに廻ったのに、アナウンスも告知も一切なく、時々モノ乞いの子どもが連れ立って来ただけだった。半日近くも駅のホームでへたり込み、疲れも痺れも焦りも感じなくなった頃、長旅でほこりだらけの列車が突然現れた。反射的に身を起こし、列車に乗り込んだのはいいが、通路まで足の踏み場もないくらいの人人人。出稼ぎ労働者の帰還の群れだった。陸路、はるばるギリシャまで行く列車はこれしかない。幸運にも、たった一つ空いていた席を見つけ一息ついた。この先、とんでもない悲劇?が待ち受けていようなどとは知る由もなく・・・。

悲劇?の車内
デッキにも通路にも、およそ身を置けそうなスペースはすべて人が占めている。あちこちで、上半身裸でカードゲームに興じる労働者。どの群れも、強い酒をあおり、そこら中に紫煙をまきちらしている。気圧されながらも確保した席に籠城しようと決意して程なく、ツーンと鼻をつく異臭。日本人にはまずいないようなきつい腋臭の臭いだ。隣の臭いの主をチラ見すると、若くて色白のヤサ男。明らかに、まわりの毛深くて日焼けした労働者の群れとは趣が違う。程なく、私がいるのも構わず前席の二人のオッサンが、代わるがわる腋臭の兄ちゃんに下卑たからかいのことばを投げかける。もちろん、当方ギリシャ語などチンプンカンプンなのだが、場の雰囲気で言っていることの大まかがわかってしまうのが忌々しい。このままでは耳(聴覚)も鼻(嗅覚)も穢れてしまうと確信し、二度と戻りたくなかったハズのデッキに逃れた。外の景色もゴツゴツした岩ばかりで、見ていても気が弾まない。直接の被害や危険は感じないものの、「このまま、まだ一昼夜いなければならないのか」と思うと気が重い。諦めて席に戻り、なるべく息をしないよう心掛けて静かに目を閉じた。この先、とんでもない幸運?が待ち受けていようなどとは知る由もなく・・・。

奇跡?の救出劇
この先、少したってから、この私が「白馬の騎士」によって救出されることになる。後から思い起こしてみると、「ギリシャの出稼ぎご用達」のように思われた列車にも、私のように間違って乗ってしまった?一握りの外国人がいたようだ。彼らも私と同じような憂き目にあい、酒と汗と紫煙もうもうたる劣境に辟易し、自分たちだけの砦を築くべく、一つのコンパートメントを占領していたらしい。そして(ここからが彼らの偉いところだったが)、同じ苦境にある非ギリシャ人に救いの手を差し伸べるべく、各車両をしらみつぶしに探し歩いてくれていた。「地獄に仏」とはまさにこのこと。斥候役のマット(スウエーデン人)に見いだされ私は、車両をいくつも乗り越え、彼らの要塞に連れ出された。こうして一つの箱(コンパートメント)に五、六人が身を寄せた。緊張や警戒も解け、すっかり寛いだわれわれのグループは、そのまま無事アテネになだれ込んだ。私の他には、まとめ役のマット・サンダースや二、三人のヨーロッパの若者(とだけしか記憶がない)。紅一点はアメリカ人。縦も横も私をはるかに凌ぐ巨躯の彼女は二八歳の弁護士だった。ここまで詳しく彼女のことを覚えているのには訳があった。アテネに着いて、まだ両替してなかった私は、コーラ代を彼女に立て替えてもらった。みんなで同じ安宿に繰り込んだ翌朝、彼女は早発ちしたので、結果として踏み倒したような形になってしまった。「外で遅くまで騒いでいる現地の人たちにしばしば安眠を妨げられたから」というのが、当方の言い分(言い訳)だ。
朝食もそこそこに、アクロポリスに行った。今のように周辺は整備されていなかった。埃っぽいでこぼこ道をタクシーで行くと、突然アクロポリスの丘の威容が目に入った。思わずわれを忘れて降りてしまって、少ないとは言えない釣銭を貰いそびった。
アテネには2,3日いただろうか。ブズキというマンドリンのような民族楽器を買い、「舞月」と名付けて一人悦に入っていた。現地人しか行かないようなテーブルが二つくらいしかない小さな茶店で、有名なフットボール(サッカー)選手だという人を紹介されたことも記憶にある(小柄だが、全身運動神経の塊のような感じの人だった)。
その後、私は、乗り合いバスに延々揺られて、もう一つの目的地デルフォイの神殿に向かった。何千年もの時を経た今でも、切り立った山々に囲まれた山間の、石だけしか残っていないような神殿には神託が刻んであるという。それには、「グノティ・サウトン(汝自身を知れ)」と書いてあると。
1972年当時、海外旅行していたのは圧倒的にアメリカ人。デルフォイ神殿にいたのも数人のアメリカ人旅行者だけだった。静けさを満喫しながら、何か記念のお土産でも買おうかと店を覗いた。神殿の脇の二本の細い道に、土産物屋が一軒づつ(それがすべてだったような気がする)。最初の店で、ケバい原色のずた袋を勧められた。主人のセールス・トークで、「引っ張ても破けない」というから、遠慮しいしい横に引っ張ると、すぐビリっときた。バツが悪くなって、何も買わずに別の筋のもう一軒の店に行った。ついさっきの、私のバッグ破損事件の顛末を全部知っていて、冷やかされた。電話している様子もなし、今でも不思議だ。互いの店は親戚同士だと聞いたような気もするが、今となってはアイマイだ。
半音を含まない音階の試みなど、西洋クラシック音楽に独特の風味を添えたドビュッシーも、「デルフォイの舞姫たち」(ピアノ前奏曲集第一巻第一曲)のタイトルの曲を書くほど、古代ギリシャの神話や芸術に興味をもっていたという。
今でもアテネから高速バスで三時間がかりだというデルフォイの神殿の場所は、ギリシャ神話においては、地球の中心だとされていた。

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