度々の旅

2009/10/3 ドイツ旅行

投稿日:2009-10-03 更新日:

6月最終週、家内の休みを利用して、ドイツだけ見る9日間のツアーに参加した。
 大手旅行社の普通のツアー、それも安かったので(われわれのように)他のプランから乗り換えてきた人たちもいて、総勢ナント39人。
 この人数では、全体としてまとまったり、交流することはあり得ないだろうと思って出かけたが、予想は完全にハズれ。超積極的な二組の夫婦が触媒になり、団体旅行にありがちな垣根はかなり取り払われた。夫唱婦随とはよく言ったもので、両国の人形屋さんと、三沢の退職校長さんには、旦那の超外向性に勝るとも劣らない奥さんがついていて、夫婦で積極外交をやった。これがかなり全体に伝播したといえよう。
86歳の一人旅の男性や、浄土宗の二人の尼さんもいて、彼らは存在そのものが目立っていた。86歳といえば、同居しているウチの義母より二つ上だ。義母は、75、6歳までは世界中(それも辺境地帯)を旅し、今でも詩吟や書道の教室に一人電車で出かける。それでも、最近は長時間の乗り物は辛いというのだから、それを考えると86歳の一人旅などというのは、奇跡に近い。もっとも、この男性も暗いところでは視力が極端に落ち、部屋では持参の無呼吸症候を緩和させるための機械をつけっ放しにして寝ているという。年齢がわかり、このような事情を伺ってからは、私はそれとなく労わっていた。ご自分の入院にショックを受けた奥さんが先に逝かれたこと、独りになってからはデイ・ホームなどでも自分の方から積極的に関わるよう努力されていることなど、いろいろなお話を伺った。

 フランクフルトの郊外のホテルに泊まってドイツ最初の朝、食べたハムはごくありきたりのものだったが、40年近く前、ザルツブルグの学生寮で毎日のように食べていたのと同じ味がして、ジーンときた。
ハイデルベルグ、ローテンブルグは家内抜きで2年前にきた馴染みの地。ミュンヘンはオリンピックの時(1972年)以来。有名なホフブロイ・ハウス(ビア・ホール)の夕食もそこそこに、歩いて市議会の広場まで行った。昔ミュンヘン近郊でドイツ語を習っていた家内にはことさら懐かしい場所のようだった。
キリストの像から涙が流れるという奇蹟譚のあるヴィース教会、東京ディズニーランド(シンデレラ城)のモデルになったノイ・シュバインシュタイン城は定番観光地。住んでいたとき行けなかった家内にとっては、何十年ぶりかの夢が叶った訪問だったが、イマイチ感動している風はなかった。
ニュルンベルクは素敵な町だった。30分ほどの自由時間を使って、道を聞き聞きデューラーの生家に行った。慶大美学時代の担当教授がデューラーの研究をしていたので、久しぶりに彼のことを思い出した。帰ってほどなく、名誉教授になった彼の訃報が新聞に出た。出来が悪い割には、私は槍玉にあがることはなかったが、彼は質問に答えられない学生をしばしば口汚く罵った。そんな場面を何度も目にしたので、あまり好きにはなれなかった。それはともかく、クラナッハやデューラー、あるいはギリシャ美術について多少興味が湧いたのは、このK教授のおかげだ。ご冥福を祈る。

さて、デューラー生家は、上り坂T字路の突き当たり手前の左角。行き止まりは木に囲まれたカフェだ。日本なら神社がありそうな清冽な気にあふれていて、ここでのんびりコーヒーでも啜れたらさぞかし旨いだろうと思う。
次の日は、バンベルク。シューマンのピアノ曲『クライス・レリアーナ』の原作を書いたE・T・A・ホフマンの生家を探してベニスに擬せられる川沿いを歩く。近くにホフマンの名を冠した劇場もあるところをみると、彼は日本以上に現地で評価されているのではなかろうか。
旧東ドイツのドレスデンは圧巻。威風堂々たる川沿いの中心地は、どこから見ても泰西名画の雛形のようだ。これぞヨーロッパ。町全体も適度な大きさで人気があるのも納得。
ベルリンは大都会。壁崩壊20周年でぐるり歩いた。壁のコンクリートを用いた各種おみやげが売られていたが、歴史の悲劇を思うと買ってはいけない気がした。ペルガモン博物館は、堅固かつシックな、それでいてどこかあっさり風味のすてきな建物。ドイツ人の色彩感は、見ていてとても落ち着きや親しみを感じる。建築中のフランクフルト新空港もしかり。重厚でモダンなそのつくりは、ため息が出るほどの機能美にあふれている。それでいてオシャレッ気もしっかりある。ベルリンは、明治の森鷗外が青春を過ごしたところでもある。昨年2ヶ月かけて全作品を読んだ小生としては、ぜひここに腰を落ち着けて、せめて数日鷗外の足跡をたどってみたいのだが・・・。また美術館や博物館を見て廻るにも別の数日が必要だろう。世界最高といわれるここのオーケストラでも、かなり前から日本人はバイオリンで重要な地位を占めている。
その後、ポツダムに行って一次大戦の講和の間などを見て回る。世界史の復習というより、知らない話をたくさんドイツ人ガイドに完璧な日本語で教わった。日本語教育の立場からいえば「あそこにアヒルがあります」など、「いる」と「ある」の区別がついていないのだが、そんなことは全く問題にならない位、彼女の日本語はすばらしかった。
ベルリン郊外で1泊した後は、翌朝バスで4時間、300キロ弱走って、ヴアイマールへ。ゲーテが83歳で亡くなるまで暮らした町であるだけでなく、ルーカス・クラナッハ父子、J・S・バッハの家も狭い一角の目と鼻の先。
われわれは少し歩いて街はずれのリストの家に行く。旅程後半に至り、多少こちらの“お里”が知れてきて、その昔ドイツ語圏に住んでいたこと、少しドイツ語がわかるということで、何組かを引率するような形になった。リストの家は、さほど大きくないものの、小洒落た庭に趣味のよい調度品の備わった二階家。ここまで来る人は多くなく、静かなゆったりした時間が持てた。それからゲーテの住まいを訪れたが、たくさん彼の本を読んで恣に出来あがっていたイメージが実物によって補強された感あり。イラン人の家族に会ったので、一緒に写真を撮る。
翌日はライン川クルーズ。「ローレライ」などを口ずさむ。伝説の岩を真正面に見据える2階のテラスでの食事も素晴らしく、思わずビールも進む。岩そのものは、(何年か前、デンマークで見た人魚像同様)どうということもないように思えたが、それを言っては御仕舞いか?
午後はケルンの大聖堂へ。本当に駅の真ん前。大聖堂そのものは半日でも佇んで見上げて見たいような気もしはするものの、ゴミ箱をあさっている人がいたり、おみやげ物屋の韓国人店員の日本語での客引きがあったりして騒々しい。こんな大きな聖堂でも、高さはドイツで二番目だという。一番高いのはウルムの大聖堂だというが、40年近く前私は訪ねていた。何の変哲もない田舎の村に突然屹立するウルムの大聖堂と違って、ケルンのものは、駅前の繁華街で、間近に見上げなければならない分、高さが迫り、人間の宗教心という無限のエネルギーが、どこまでも上に延びてゆくようで壮観だ。

フランクフルトでの最後の夜は、みんなで盛り上がったあと、超外向夫婦を中心に飲み直す組があり、賑やか。私は誘いを振り切って、「一人旅」で、「ヒマそう」で、かつ「のんべえ」という条件を満たす代わりの人質数人を言葉巧みに誘って、飲み直し組に差し出して逃げた。数分の出来事だから、ホテルの入り口で待っている家内は知る由もない。それから家内のリクエストに応えて夜のダウンタウンまでタクシーで行った。9時過ぎでも結構明るい。われわれの夜の単独行も何組かの夫婦などにバレ、みんなでわいわいタクシーに分乗して繰り出した。夜9時過ぎでもまだかなり明るく、前回は見逃したローマ時代の遺跡や、ゲーテ像などを見て廻った。

この最後に泊まったホテルの裏は、ちょっとした森になっており、その中に異次元から来たような不思議な雰囲気(風貌)の木が一本。最初、非常口から遠くにあるのを見つけ、翌日(最後の朝)は、そばまで寄ってみた。色々な角度からたくさん写真に収めたが、残念ながらこの木の独特さは現れなかった。

飛行機に乗って、遠くに旅する度に思うことだが、身体は日本に帰ってきても、心(魂)は、まだ到着していないような感覚に見舞われる。

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