自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.2

投稿日:2020-01-15 更新日:

新たな出会い・ついに京都へ
こんな不毛な?中学時代のある日のこと。たまたま、夕方のNHK教育テレビが目に入った。世界的に有名な数学者で、奈良女子大学の教授だというゴボウのように痩せて皺々のお爺さんが話していた。岡潔さんという人だった。名前位は聞いたことがあった(後日彼の本『春宵十話』も買った)。私の眼を惹いたのは、その対談相手の着物を着た女性の方だった。京都に住む随筆家だという。岡氏のことばに、時々下を向いたりしながらも、うなずく女性の仕草やまなざしがとても真剣だった。そのやさしさや、人間的深みや大きさのようなものが、白黒の小さな画面からでも伝わってきた。知らず識らずテレビに近づき、居ずまいを正して聞き入った。私はいっぺんでこの人に興味をもった。ノンベンダラリと成り行きまかせで生きてきたが、フト、「いつかこの人に会ってみたい、話をしてみたい」と思い始めた。殺伐とした、空しい日々に、一筋の光が射したような気分だった。「京都、京都、京都」と、頭の裡で呪文がグルグル廻った。翌年の夏休み(たしか中三)、両親の郷里の岡山に独りで向かうとき、京都で途中下車した。自分としては(京都のどこかにおられるこの人に会う)予行演習のつもりだった。炎暑の京都はお寺だらけで、それがまた良かった。一遍でこの街が気に入った。
こうして、高校時代を通じて蓄えられた京都への憧憬は、大学生になって爆発する。休みという休みは、直接京都へ向かうか、四国や九州へ行くにしても、必ず京都へは立ち寄った。
当時は、東海道新幹線はできて程なく、学生には高嶺の花。もっぱら在来線の夜行急行『銀河』に乗った。もちろん寝台などの贅沢はせず、木枠に質素な緑のフェルトが張ってあるような三等車だ。夜十時半頃東京駅を出ると、翌早朝京都に着くので、まことに都合がよかった。作るときにひと悶着あった京都タワーとてまだなく、いつも東寺の五重塔が迎えてくれた。
宿は、たいてい嵐山に近い鹿王院だった。
細面で眼光鋭い、やや顎のしゃくれた住職だったように記憶する。「目つきを別にすれば、完全な公家顔だナ」と一人決めしていた。寺の玄関にあった屏風は、山岡鉄舟のものだったようだ。何泊もして馴染みになってからは、留守番なども仰せつかった。そもそもこの寺は、姉の読んでいた女性週刊誌の広告?で見つけたのだが、俳優の森繁久弥さんにも所縁のある由緒ある寺だったようだ。今回ネットで調べたら、一休禅師も十二歳の折ここにお使いにきている。

私が長く関わってきた禅の尺八(昔、虚無僧が吹いていた)は、中国唐代に臨済の兄弟弟子だったヒッピー僧・普化を始祖とする「臨済宗系普化宗」で専ら使われた(だから現在の七節五孔の尺八を普化尺八と呼ぶ)。これ以前に普化尺八の祖型とされる一尺一寸一分の短管『一節切』があった。この一節切尺八を一休さんは吹いた(通称一休寺とよばれる酬恩庵には、一休さんが吹いたとされる一節切が残されている)。そんなご縁のあるお寺とは露知らずに泊まっていた。驚きついでに申し添えると、一休さんと私は誕生日が同じ(2月1日)。つまり、私は一休禅師が生を享けた室町時代から数えて555年後の同じ日に生まれたことになる。
さて、鹿王院は禅寺なので、早朝(それこそ四時、五時台)座禅のお勤めがある。いつも、寒い、眠い、ひもじいの三重苦だったが、これが寺の掟。宿坊が安いのとセットだから仕方がない。すっぱり割り切っての座禅行に励んだ(つもり)。時々早朝の汽笛がハッキリ聞こえたが、当時、ここから遠くない山陰線の踏切で、立命館大学の女子学生が命を絶った。その自伝が今でも読み継がれている『二十歳の原点』だ(当時買って読んだ)。ずっと「ハタチの原点」だと思っていたが、「ニジッサイ」と読ませるようだ(これも今回初めて知った)。こうして中学時代から、ぜったい会おうと独り決めしていた憧れの随筆家・岡部伊都子さんを訪ねる段取りが整いつつあった。
いよいよ岡部さんに連絡をとろうというその日、とりあえず嵐山に出て、電話帳で調べた鳴滝のお宅に電話したが転居された後。幸いにもその折、新しい番号を教えていただき、ついにつながった。何を、どうお願いしたのかまったく覚えていないのだが、こちらの本気さが伝わったのか、快諾していただき翌日お訪ねすることになった。ホッとすると同時に、何か人生の時計の針が少し進んだような思いだ。
渡月橋の脇の土手に腰掛けて、しばらく川の流れを見ていたら、目の前で水遊びをしていた小学高学年くらいの少年が、足をすべらせて転んだ。水浸しになったのを知らん顔もできず、土産物屋さんでタオルを借りて拭いてやり、一緒にバスで四条河原町まで来てフルーツ・パーラーに入った。とてもおマセで利発な山本君は、やわらかな京ことばで話した筈だが、岡部さんのことに気をとられて話しの内容は覚えていない。浮き浮きというより、むしろ厳粛な気持ちで寺に戻った。有田さんという山口県の高校の社会科の先生も同宿しておられ(後に彼とは一生の付き合いになるのだが)、岡部さんのことを話したら、名前をご存知だった。何日目かに「君はなかなか見どころがあある。ウチの学校には気立てがよくて優秀な娘もいるから、お嫁さん候補に紹介してあげよう」てなことを言われたので、待つともなく待っていた。その後、有田さんの家に泊めてもらったり、拙宅にも遊びにみえたり、と、何度も会う機会があったが、この話しはこれっきり立ち消えた(大人のいうことを真に受けてはいけないのだろうか)。かくして、われわれのセドナ旅行に有田さんが参加されたときは、当方も正規の妻子持ちだ。
No.3 へ続く

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