自分を識る

グループ・ワークに出会うまで No.3

投稿日:2020-01-16 更新日:

ご対面
北白川の通りを少し入った所に、岡部さんのお宅はあった。
和風の格子戸を開けると、お手伝いさんとおぼしきエプロン姿の若い女性が出てきて、応接間に通してくれた。程なく和服姿の岡部さんが現れ、簡単な挨拶の後、開口一番言われたのが、「私、駆け落ちがしたいのよ」だった。想像もつかない予想外のお言葉に、のっけから話の接ぎ穂を失った。帰りは外がすっかり暮れていたので、ずいぶん長い時間、取り留めのない気まぐれな若者の話にお付き合いいただいたようだ。何を話したかはまったく覚えていない。脈絡のない、ただし真剣さだけはたっぷりの、生硬な人生に対する思いの丈のようなものをぶちまけただけだったような気がする。岡部さんは一切遮ることなく全部聞いてくれた。唯一、チラッと覚えているのは、岡部さんの随筆のファンの方が、病弱な岡部さんを気遣って住み込みのお手伝いさんを志願されることがある、という話だ。そんな時は、お受けすることもあるのだが、それも数ヶ月とか期限を区切っての話だという。お互いの(精神的)自立のためには、そうすることがふさわしいというようなことだった。帰り際、最近、生まれて初めて作詞というものをした曲だと言う女声コーラスのLPレコードを下さった。

   恋さん、恋さん、そない言われてウチは恋さん
  ある日、学校で、知らん子が、コクッとお辞儀しやはった
  誰やろ どこの子かしらん?
  あの子どこの子、どこの子あの子・・・
  ええなあ、会えてよかった・・・
  本当の恋さんは、ウチやなかった

ざっとこんな歌詞だったと思うが、ご自分の実体験だという。
この歌詞にメロディーをつけた服部公一氏は、独特の転調をし、「ええなあ」のところで音量・音高ともにクライマックスにした。それこそ何百回も聴いたので、今でも歌える。
結局、岡部さんにお会いしたのは、あと二回。
初めは何も知らず、ただガムシャラに会いにいった自分ではあったが、さすがに、その後、岡部さんの本を何冊も読んで、多少、そのプロフィールもわかっていた。フィアンセを嬉々として戦地に送った軍国少女だった自分を深く愧じ、戦後は平和の尊さを訴えるような活動にしばしば名を連ねたこと。沖縄の石垣島の白保のサンゴや、竹富島の自然を守る運動等をしておられることなどだ。
次にお訪ねしたのは、折りしも三島由起夫が市谷駐屯地に乱入し割腹自殺した次の日だった。ヒューマニズムの立場から左傾化?した岡部さんは、「三島を神格化しないようお互い頑張りましょうね」と同意を求められた。当方は、深く考える間もなく「はい」と応じた。
三度目は、賀状のやりとりなどを通じて、私が尺八を始めたことを知っておられ、岡部さんから合奏を懇望された。私は「譜面がないから」とか言い訳して及び腰だったが、「『黒髪』なら出来るでしょ」と押し切られた(この曲は、筝曲合奏中心の現在の流派で、最初に習う地歌の名曲だ)。静かな雰囲気ながらも、芯のあるしっかりした声で歌われた。たぶん、これが最後の邂逅になるだろう、と互いに了解しあっているような密度の濃い時間だったような気がする。立てかけてある筝があるだけで、他にはほとんど物を置いていないこの部屋で、それこそ何十何百回と岡部さんが口ずさんできたのだろう。彼女の歌の魂のようなものが壁に沁みこみ、それが漂い出て、今実際に声を出しているご本人の声に呼応して、幾重にも畳み込まれて重唱になっているような趣だった。
(写真は、2009年12月発行 NHK出版 「こだわり人物伝」に掲載された30代の岡部伊都子さん)

No.4 へ続く

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