疾風怒濤の中学時代
大学生の時のグループ・ワーク体験がiBDセミナーにつながり、ワークショップ・ウイズになっていった。ここに至るまでの、意識の長い道のりはもっと早くに始まっている。そこで、中学生の頃のことから始めたい(ご他聞に洩れず、私もこの頃、自我が目覚め始めたようだ)。
疾風怒濤の反抗期だからといって許されることではなかろうが、当時の私は、大人をバカにし、まわりに壁をつくり、そんな自分を持て余していた。今思えば、単純で安直、かつワン・パターンの独りよがりの正義感をふりまわしていただけだった。自意識が尖り、見るもの聞くものすべてを否定していた赤面の時代だ。
寡黙で短気な父とは、小学校の高学年頃から、時々ぶつかった。取っ組み合っていつもタンスのそばまでブッ飛ばされるのは自分の方だった。気まぐれな自分の感情が暴発して事は起こる。だから非はいつでも自分にあった。中学生になったある日、恒例の“合戦”が始まった。この時、いつもと勝手が違ったのは、ぶっ飛んだのはオヤジの方だったからだ。お互いショックだったのだろう。この日を境に合戦はパッタリ止んだ。
区立の中学校は、まるで面白くなく、窓の外ばかり見ていた。道路をはさんで都立の養育院があった。院長を長く務めた渋沢栄一のデカイ銅像がそびえていた。
学校では、一度だけ奇蹟が起きた。代講かなにかで、新しい英語の先生が来た。中年の女性だったが、教え方が実にうまい。さっぱりした気性で、ハキハキ・キビキビ、小気味よいテンポで授業を進めていった。
外国語というものの奥深さ、母語以外の言葉を学ぶことの意味や意義、楽しさなど、あらゆることが彼女を通じて伝わった。私は一気に覚醒し、英語の時間だけはやる気になった。不思議なもので、たった一つのプラスの事柄を見つけただけで、学校の見え方が変わった。人生そのものにも、今まで知らなかった明るい光がさしてきたようだった。ところがこの明るい兆しは、ある出来事から一瞬のうちに消えた。
予兆?はあった。この先生は、分け隔てなく片っ端から生徒をあてていた。私にとっては、これがやる気を引き出す最高のやり方だったが、別の誰かさんにとっては、そうではなかった。ある女子生徒が、指される度に答えられず、毎度立ち往生していた。そんなある日、いつものように質問を畳み込まれシドロモドロになって、彼女は“暴発”した。突然泣き出したのだ。それは、メソメソ・シクシクというような生易しいものではなく、文字通りの号泣だった。何か怒りを含んだような、妙に力強い泣き声だった。一瞬いやな予感がよぎり、すぐ現実になった。「何だよう、私だって一生懸命やっているのに・・・」。この捨てゼリフ?を残して、サッサとかばんに荷物を詰めて、彼女は勝手に教室を出て行った。気まずい沈黙があったことまでは覚えているのだが、その後の記憶は全くない。先生は明らかに動揺しているようだった。「どうもこのまま終わりそうもないな」との思いが、まもなく現実になった。女子生徒の方は、翌日もまるで何事もなかったかのようにケロッとして学校に来たが、先生はそのままいなくなった。
何の説明もないまま、新しい先生が来た。同じような年代の女の先生だった。か細い声で一人で進行する類の、まるで覇気の感じられない授業に戻った。私の向学心?は一気に冷め、元の怠惰な生徒に戻って、時間が過ぎるのをジッと待った。授業中、私は二度ほど奇声をあげた。新しい先生は、「何でしょうね、まったく」といった感じで軽くたしなめ、それ以上のお咎めもなかった。今思えば、あのわが雄たけびは、怒りや狂気を含んだ、“魂の声”だった。元に戻ってしまったつまらない授業への抗議という意味はもちろん、いなくなった素晴らしい先生を守ってあげることも、感謝や賞賛を伝えることもできなかった、無力な自分に対する慙愧・悔恨の念も確実にあったように思う。
No.2 へ続く